東照大権現として祀られた祖父の家康を深く尊崇していたとされる。
バストアップ・フレグランス関連コスメグッツガイド
調査・内職関連ビジネスコーチサーチ
新築・仏壇関連ライフスタイルストア-情報
ドットコム健康・医療情報
飲料水・教材関連通販全国情報ガイド
セミナー・パソコン教室関連教育ランドネット
旅行・水族館関連旅の宿泊総合
コスメチック・しわ取り関連美容・コスメ総合
建売・信託関連ビジネスジャンプ総合
ポイント・養育関連ライフスタイルパートナー情報
春日局筆と伝わる「東照大権現祝詞」(日光山輪王寺所蔵)には、病弱で3歳時に大病した家光が家康の調薬によって快復した、以後も病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復したとする話や、家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒し、家光を駿府に引き取って家康の養子にしてから三代将軍に就けると叱責した話が記されている。これらに加え、家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることなどが、父秀忠よりも祖父家康の恩を意識していたと考えられている。
寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると、日光社参を生涯のうちに10回行っている[3]。晩年、家光は度々家康の姿を夢に見て、狩野探幽にその像を何度も描かせている。また、家光は身につけていた守袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れており、これも家康とのつながりの意識の強さと、その尊崇ぶりを著すものと見られている。
家光は正室鷹司孝子と極めて不仲であったこともあって、青年時代には男色に耽って[4]女を一切近づけず、中年を過ぎても世嗣を儲けなかったため、世継ぎのことを心配した春日局が家光好みの女中を各所から召し寄せたという。晩年は振が長女千代姫を産んだのを皮切りに、幾人もの側室を寵愛した。
正室鷹司孝子とは夫婦生活は一切無かったほど、結婚当初から死に至るまではなはだ険悪な仲であり、結婚後程なくして吹上広芝に建てた屋敷(中ノ丸)へ孝子を大奥から追放同然に移住させて(事実上の離縁)軟禁し続けた挙句、自らの死に際して形見分けとして孝子へ与えたのは、金五十両と幾つかの茶道具等のみであった上、次代将軍である徳川家綱を始めとする自らの息子たちを孝子の養子としないなど、生涯を通して孝子を忌み嫌いかつ冷遇し続けた。